大阪高等裁判所 平成6年(ネ)339号 判決 1995年9月28日
控訴人
伊藤勝三
右訴訟代理人弁護士
宗藤泰而
被控訴人
朝日火災海上保険株式会社
右代表者代表取締役
野口守彌
右訴訟代理人弁護士
宇田川昌敏
同
牛嶋勉
同
河本毅
同
和田一郎
主文
本件控訴を棄却する。
差戻し前及び後の控訴審並びに上告審の訴訟費用は控訴人の負担とする。
事実
第一申立
一 控訴人
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人は、控訴人に対し、金一七三万二〇〇〇円及びこれに対する昭和五八年五月一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
3 訴訟費用は第一審、差戻し前及び後の控訴審、上告審とも被控訴人の負担とする。
4 右第2項について仮執行宣言
二 被控訴人
主文同旨
第二当事者の主張
一 請求原因
1(一) 被控訴人は、火災保険・自動車保険等の各種損害保険業を目的とする株式会社である。
(二) 控訴人は、昭和二四年一〇月一四日以来日本国有鉄道の外部団体であつた鉄道保険部の従業員であつたところ、右鉄道保険部が昭和四〇年二月一日被控訴会社と合体したことに伴つて被控訴会社の従業員となるとともに、全日本損害保険労働組合朝日火災支部(以下「組合」という)の組合員となつたが、昭和四三年一月神戸支店次長に昇格したことによつて非組合員となり、次いで昭和五六年四月から九州営業本部営業担当調査役を勤めたうえ、昭和五八年三月三一日付をもつて自己都合により被控訴会社を退職した。
2(一) 当時、被控訴会社には就業規則である退職手当規程(昭和四六年一〇月一日制定、以下「本件退職手当規程」という)があり、勤続三〇年を超える者が自己の都合により退職する場合には、「本俸」の月額に退職手当基準支給率表に掲げる支給率七一倍を乗じ、さらに自己都合退職の場合の乗率表に掲げる乗率一〇〇パーセントを乗じた額の退職手当を支給する旨を定めていた。
(二) 控訴人の本俸の月額は、昭和五二年四月一日現在で二八万七六〇〇円、昭和五三年度(同年四月から同五四年三月まで、以下同じ)はそのまま据え置かれたところ、昭和五四年四月一日には二九万九五〇〇円に、昭和五五年四月一日には三〇万六三〇〇円に増額されたが、被控訴会社においては、昭和五六年四月一日付をもって就業規則である給与規程(以下「旧給与規程」という)を変更して新たな給与規程(以下「新給与規程」という)を定め、従来の本俸に代えて本人給と職能給とを合わせた「基本給」を支給することとなつたのに伴い、控訴人の「基本給」は月額三一万円と定められ、昭和五七年四月一日にはこの基本給月額が三一万四〇〇〇円に増額された。
(三) 以上の経過からすれば、新給与規程の制定に伴い、本件退職手当規程上の「本俸」は当然新給与規程上の「基本給」と読み替えることになるので、本件退職手当規程に基づく控訴人の退職手当の額の基準となる「本俸」は、右退職時の「基本給」月額三一万四〇〇〇円ということになり、それを前提として控訴人の退職手当の額を計算すると、次式のとおり金二二二九万四〇〇〇円となる。
314,000×71×1=22,294,000
(四) しかるに被控訴会社は、昭和五八年四月二〇日控訴人に対し、退職手当として金二〇五六万二〇〇〇円(昭和五三年度本俸月額二八万七六〇〇円に昭和五四年度人事考課に基づく加算額二〇〇〇円を加えた二八万九六〇〇円に支給率七一と乗率一〇〇パーセントを乗じて得られる金額につき一〇〇〇円未満の端数を切り上げた金額)を支給したのみで、その残額一七三万二〇〇〇円を支払わない。
よつて、控訴人は被控訴人に対し、右退職手当の残額金一七三万二〇〇〇円及びこれに対する履行期(退職後一月以内)の後である昭和五八年五月一日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1及び2の(一)、(二)の事実は認めるが、2の(三)は否認する。
旧給与規程の「本俸」と新給与規程の「基本給」とは性質を異にし、これを同一視することはできないから、本件退職手当規程上の「本俸」を新給与規程上の「基本給」と読み替えるのは正しくない。当時、本件退職手当規程に定める「本俸」なるものは制度上存在しなくなつていたところ、被控訴会社は組合との間の賃金交渉において、昭和五四年度から同五七年度までの賃金引上げを合意した都度、その引上額は退職手当の基準額には算入しないことをも合意し、それを賃金引上げの条件としていた。一方、被控訴会社と組合及び非組合員たる従業員との間には、会社と組合との間で協議決定された労働条件は非組合員たる従業員に対しても効力が及ぶ旨の包括的合意が成立しており、また、会社と組合との間で協議決定された労働条件に関する事項は、書面化されると否とを問わず、被控訴会社・組合・非組合員を含む全従業員を拘束するとの慣行も遅くとも控訴人の退職時までに成立していたものであるから、右包括的合意もしくは右慣行自体の効力により、退職手当の額の算定の基準は昭和五三年度の本俸とすることとなつたものである。
さらに、被控訴会社においては、右賃金引上額を退職手当の基準額には算入しないとの各合意が成立した都度、控訴人を含む非組合員全員にこのことを周知徹底させていたものであるから、本件退職手当規程上の「本俸」は「昭和五三年度の本俸」を意味するものと解釈するのを相当とする状況にあつたものといわなければならない。
2 同2の(四)のうち控訴人に退職手当として二〇五六万二〇〇〇円を支給したことは認めるが、控訴人の昭和五三年度の本俸を基準として退職手当の額を計算するとこの金額となるから、未払いの残額なるものは存在しない。
三 抗弁
1 仮に控訴人の主張のように本件退職手当規程を読み替えるべきものとしても、以下のような事情があるので、被控訴会社と控訴人との間の雇用契約において、昭和五四年度から同五七年度までの賃金引上額は退職金算定の基礎にしない旨の黙示の合意が成立していたものというべきである。
(一) 被控訴会社と組合との間で前記のような合意がなされたところ、会社はその都度、労使問題速報(以下「速報」という)を以て控訴人を含むすべての従業員にその旨を周知徹底させていたが、これについて控訴人が異議を述べるようなことは一度もなかつた。
(二) 控訴人は、右各年度の賃金引上げは前記のような条件の下で実現したものであることを知りつつ賃金引上げ後の賃金を異議をとどめることなく受領していた。
(三) 控訴人は、昭和五三年四月一日に被控訴会社の姫路支店長に就任した後、昭和五四年六月三〇日に退職した部下の琴地唯二及び同五五年三月三一日に退職した同市森松美に対し、支店長の立場で退職手当計算書を交付したが、その際、退職金算定の基準とされているのは、前記のような事情から、昭和五三年度の本俸である旨を説明した。
2 控訴人には、右1の(二)及び(三)のような事情があるばかりでなく、被控訴会社において昭和五四年度から同五七年度までに退職した者四五六名のうち控訴人以外の者すべてが昭和五三年度の本俸を基準として算定された退職手当を異議なく受領しているのに、組合の元執行委員であり、元管理職の地位にあつた控訴人のみがこれに反する主張をしてそれを上回る退職手当の支給を求めるのは信義則に違反し、権利の濫用として許されないというべきである。
四 抗弁に対する認否
1 抗弁1の事実は否認する。
速報には賃金引上額を退職手当の基準額には算入しないとの各合意は全く記載されておらず、控訴人が賃金引上額を含む賃金を異議を申し述べることなく受領したからといつて、退職手当の基準額を昭和五三年度の本俸とすることを承諾したものということはできない。また、退職していく部下に退職金計算書を交付した際に、昭和五三年度の本俸が退職手当の額の算定の基準とされている旨の説明をしたこともない。
仮にそのような黙示の合意が成立したものとしても、その合意は就業規則である本件退職手当規程で定める基準を労働者に不利益に変更するものであるから、労基法九三条により無効である。
2 同2の事実のうち、控訴人が元組合の執行委員であり、元被控訴会社の管理職の地位にあつたことは認めるが、その余は否認する。
第三証拠
原審記録中の書証目録及び証人等目録、差戻し前及び後の当審記録中の書証目録記載のとおりであるから、これを引用する。
理由
一 請求原因1及び2の(一)、(二)の事実は当事者間に争いがない。
二 そこで、請求原因2の(三)について判断することとなるが、被控訴人は、仮に控訴人主張のように本件退職手当規程を読み替えるべきものとしても、被控訴会社と控訴人との間の雇用契約において、昭和五四年度から同五七年度までの賃金引上額は退職金算定の基礎にしない旨の黙示の合意が成立していたと主張する(抗弁1)ので、右請求原因2の(三)についての判断はしばらく措いて、まず、この点から検討することとする。
(証拠・人証略)によれば、次の事実が認められる。
1 被控訴会社と組合とは、昭和三一年一二月二八日に締結された労働協約に基づき、非組合員を含む全従業員の労働条件の基準に関する事項については労使協議会に付議して協議決定してきたが、同協議会における昭和五三年度の賃上げ交渉においては、被控訴会社が業績不振を理由に零回答をし、組合もやむなくこれを呑んで昭和五四年三月二二日に妥結した。
2 同五四年度の賃上げ交渉においても、会社側は業績不振を理由に賃上げには応じない構えであつたが、交渉の末、結局、昭和五四年度本俸の引上額は同年度退職者の退職手当の基準である「本俸」には算入しないことを条件にこれに応じることとし、同五五年三月一四日、一人当たりフアンド一万三五五五円として同年度賃金体系のとおり賃金引上げを行うことで妥結した。そして、被控訴会社は、非組合員を含む全従業員に対しその経過を記載した速報を配布した上、右のとおり引き上げられた賃金を支払つてきた。
3 同五五年度の賃上げ交渉においても、同年度本俸の引上額の退職手当の基準額への算入問題については、昭和五四年度引上額の取扱と合わせて、退職金制度改定協議の中で労使が協議して決定することとするとともに、その協議による決定があるまでは各年度の本俸の引上額は退職手当の基準額には算入しないこととする旨合意した上、それを前提として一人当りフアンド一万四五六六円で同年度賃金体系のとおり賃金引上げを行うということで交渉は妥結した。そして、被控訴会社は、前同様に全従業員に対しその経過を記載した速報を配布した。
4 昭和五六年度及び同五七年度の賃金交渉においても、各年度の本俸の引上額は同年度退職者の退職手当の基準額には算入しないことを改めて労使双方で合意した上賃金引上げの交渉を妥結させ、その都度前同様に交渉経過を記載した速報が配布された。
5 このように、各年度の賃金引上額は同年度退職者の退職手当の基準額である「本俸」には加算しないことが繰り返し労使間で合意されてきたが、組合側が、そのことが労働協約・就業規則等において明文化されるのは不利であると判断しこれに反対していたため、会社側でも強いて明文化しようとはせず、結局、明文化されないままで終わつた。
6 しかし、昭和五四年度から同五八年五月に新退職金規定が施行されるまでの間に被控訴会社を退職した四五〇名余の従業員に支給された退職手当は、すべて昭和五三年度の本俸を基準として算定されたものであり、その後の賃上分は基準となる「本俸」には加算されていなかつた。
7 前記速報はすべて控訴人にも配布され、控訴人もこれを読んで労使間の交渉経過を知るとともに、昭和五四年度以降の賃上げが、その賃上額を退職手当の基準額には算入しないことを前提として実現したものであることを十分認識していたが、そのことについて別段異議や不服を表明することなく引上げ後の賃金の支払を受けていた。また、控訴人は、間もなく定年を迎えることになるため退職手当問題に強い関心を持つていたところ、自己都合で早目に退職すれば、本件退職手当規程により昭和五三年度の本俸を基準に退職手当が支給されることになるが、支給係数が七一倍であるため、近々制定される予定の新退職金規定(支給係数は五一倍と低くなる)に基づく退職手当よりは有利であると判断して自己都合退職の途を選んだ。
8 なお、控訴人は、姫路支店長に在勤中、昭和五四年六月三〇日に退職した同支店の従業員琴地唯二に退職金計算書を交付したが、その際同人に対し、退職手当の額の算定基準となつているのは昭和五三年度の本俸であつて、同五四年度の賃上額はこれに加算されていないことを説明した。
以上の認定事実を総合すれば、遅くとも控訴人の退職時までには、控訴人と被控訴会社間の雇用契約において、控訴人の退職手当は、昭和五三年度の本俸を基準額として算定し、同五四年度以降の賃上額はこの基準額に加算しない旨の合意が黙示的に成立していたものと推認するのが相当というべきである。
三 そこで、右合意が就業規則である本件退職手当規程で定める基準を労働者に不利益に変更するものとして労働基準法九三条に違反するかどうかの点について判断することとするが、この点は結局、同規程が退職手当の額の基準と定めている「本俸」の解釈いかんに懸かつているものというべきであるから、以下そのような観点から検討するに、昭和五六年四月一日の新給与規程の施行により、被控訴会社の給与体系から「本俸」なるものが存在しなくなり、控訴人の退職時点においても同様の状態であつたことは前記のとおりであり、かつ、本件退職手当規程についてそれに対応する改訂が行われていなかつたため、形の上では、退職手当の額の算定基準は存在しながらその適用の対象となるものが存在しない状態にあつたものというよりほかはない。
もとより、そのために、額の算定不能を理由に退職金請求権そのものが存在しなくなつたものとみることができないことはいうまでもないところであるから、右「本俸」を合理的に解釈して適切な額を算定することとするのが相当であるというべきところ、(証拠略)によれば、被控訴会社における賃金は、旧給与規程においては「本俸」と名付けられていたが、いわゆる総合決定給であるためにその決定基準が不明確であつたこと、そこで、新人事体系においてはこのような性格の「本俸」を廃止し、新給与規程において新たに職能給の制度を導入するとともに、賃金を生活保障の部分と職務遂行能力に応じた労働の対価に相当する部分とに分け、それを併せたものを「基本給」と名付けて賃金の決定基準の明確化を図ることとしたことが認められる。
そうであるとすれば、旧給与規程の上の「本俸」と新給与規程の上の「基本給」とは、その性質を異にするものといわざるをえないから、たとえ個々の場合においてその額が近似することがあるとしても、その旨の明文の定めがないのに、本件退職手当規程の定める退職手当算定の基準である「本俸」を新給与規程上の「基本給」と読み替えるのは相当でないといわざるをえない。
のみならず、前記二の1ないし8において認定した事実関係からすれば、控訴人の退職当時においては、右退職手当規程上の「本俸」は、昭和五三年度の本俸を意味するものとして現実に解釈され、かつ、そのように解釈するのを相当とするような客観的状況が存在していたものということができるので、そのような客観的状況を踏まえて考えれば、本件退職手当規程上の「本俸」は右の新給与規程の「基本給」ではなく、旧給与規程に基づく「昭和五三年度の本俸」を意味していたと解するのが相当といわざるをえない(上告審の破棄判決の拘束力は、破棄の理由とした判断の範囲に限られるから、右のように判断したからといつて本件上告審判決の拘束力を破ることになるものでないことはいうまでもない)。
そうすると、前記黙示の合意は、就業規則である本件退職手当規程に定める基準に達しない労働条件を定める合意には当たらず、労働基準法九三条によつて無効となるものではないというべきである。
もつとも、本件退職手当規程上の「本俸」を右のように解するならば、右の黙示の合意の成否にかかわらず、控訴人としては、昭和五三年度の本俸を基準とし算(ママ)定した退職手当の支給を受けるにとどまるので、結果的には、右黙示の合意の成否及び効力について判断することを要しなかつたことになるけれども、いずれにせよ、控訴人において新給与規程上の「基本給」を基準として算定した退職手当との差額を請求する権利を有しないことに変わりはないというべきである。
四 そうすると、右差額の支払いを求める控訴人の本件請求を失当として棄却した原判決は相当であつて、本件控訴は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担について民訴法九六条、九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 藤原弘道 裁判官 辰己和男 裁判官原田豊は転補につき署名押印することができない。裁判長裁判官 藤原弘道)